この時期には、だいたいその前の時期の方針に従いながら、ただ日本の脚本については、真船さんの作品だけにたよらずに、他の戦前作家の戦後の作品や戦後作家の作品を積極的にとりあげることによって、新しい時代の要求にこたえようとしました。一つ億えの演劇評論家たちの間には、いまでも俳優座に「アカデミズム」という肩書きを抑しつけたがる人がいますが、私共の修業時代、「アカデミズム」の時期は、最初の五年間で一応終っていたと云えましょう。五周年を迎えるとともに、私共は、その記念事業の一つとして俳優座演劇研究所とその附属の俳優養成所をつくり、研究・実験・後進養成の仕事はひとまずそこに托し、劇団としては、時代の刻々の要求にこたえながら、職業化の道を進むことにしたのであります。

そのために私共は、これまでの同人制をやめ、劇団員全体(当時26人)の共同責任で運営される有限責任会社として内部を整備するとともに、三越劇場での本公演を根城にして、

(1) 関西公演の確立

(2) 地方巡演網の拡大

(3) 大劇場への進出

(4) 観客組織の強化

(5) 学校・職場の素人劇団や演劇サークルとの接触

(6)「こどもの劇場」「青年劇場」の運動を通じての観客の次の世代への働きかけ

というような、私共の仕事の大衆化の線を積極的に押し進めようとしはじめました。

次に示す数字は、この期の前半の私共の仕事があらゆる面でかなり順調に進んでいたことを示しております。

1950年度 公演回数 上演回数 観客数
本公演 4 144 69,773
地方公演 5 111 80,019
こどもの劇場 1 13 7,803
創作劇研究会 2 14 4,632
勉強会 1 7 2,297
合計 13 289 164,524
1951年度
本公演 4 121 61,181
地方公演 5 112 99,620
こどもの劇場 1 26 27,083
青年劇場 4 181 158,802
勉強会 1 4 1,871
合計 15 444 348,558
1952年度
本公演 4 134 77,340
地方公演 4 67 75,750
こどもの劇場 2 10 15,300
青年劇場 5 153 127,347
勉強会 1 3 2,034
合計 16 367 297,771

この表によりますと、1952年度の上演回数や観客数が前年度にくらべて減ったみたいですが、これはその年の秋から三越劇場が新劇にたいして閉鎖され、それ以後は公演回数を極度にきりつめ、映画出演によって資金を獲得して、自分たちの劇場を建てる仕事に没頭しはじめたからです。これがなければこの年の公演活動ははるかに前年度を上まわったことでしょう。